砂糖の歴史

基本の調味料の1つでもある砂糖はいつから日本に存在するのでしょう?今回はそんな身近な砂糖の歴史について紹介していきます。

砂糖の歴史

世界での広がり方

砂糖の始まり
お菓子作りにはもちろん日本料理をはじめとしたさまざまな料理にも欠かせない砂糖はインドで生まれました。もともとはサトウキビの皮を剥いて直接茎を噛んで甘い汁を飲んでいましたが、紀元前327年の記録にはサトウキビや砂糖と思われる記述が残っており、はるか昔から重宝されていたのが分かります。

当時は精製する技術はなく、今で言う黒糖のようなサトウキビの搾り汁を煮詰めて固めた状態のものだったと言われています。この砂糖の原材料になるサトウキビはさらに昔、紀元前8,000年~紀元前1,500年の間にはニューギニア諸島周辺の島で栽培が始まっており、人類の進化には欠かせない植物だったのかもしれません。

砂糖が広まりはじめる
5~6世紀にかけて砂糖はインド周辺や西はペルシャ・エジプト、東は中国へとサトウキビの栽培方法や作り方が伝わり、次第にヨーロッパへ各地へと広がっていきます。12世紀頃になると貴族などの上流階級でコーヒーを飲む習慣が出来、砂糖を使う量が増加しました。

15世紀頃にコロンブスが新大陸を発見し地中海から持ってきたサトウキビを移植すると、サトウキビの栽培がジャマイカやキューバをはじめに徐々に拡大していきアメリカ大陸に広く伝わります。そして次第に砂糖は貿易物資へと変わっていきました。18世紀にはヨーロッパなどの寒い地域ではサトウキビの栽培が出来ない代わりに、てん菜から砂糖を作るようになります。ドイツを中心に行われていたてん菜を原材料にした砂糖作りは、ナポレオンの貿易禁止による砂糖の供給不足を大きく助け、産業化まで発展しました。

20世紀に入るとサトウキビからは約1,000万トン、てん菜からは800万トンの砂糖が生産され、戦争時を除けば現在にいたるまでその生産量は増え続けています。現在はインドとブラジルが世界2大砂糖生産国となっており、世界に大きな影響を与えています。日本はこの2国より主にオーストラリアやタイからの輸入に頼っており、次いで南アフリカやブラジルなどからも輸入しています。

日本での砂糖の歴史

砂糖の伝来-奈良時代-

日本には奈良時代(8世紀頃)に中国から初めて砂糖が伝わります。日本における砂糖の最初の記録は、「正倉院」献納目録の「種々薬帖」の中に「蔗糖二斤一二両三分并椀」の記録があります。伝えたのは唐招堤寺を開いた鑑真和上という説と、遣唐使によってもたらされたという説があり、遣唐使によって伝わったという説の方がやや有力とされるものの正確なことはまだわかっていません。当時はとても貴重品で食品ではなく薬として扱っていました。一部の上流階級の間では調味料として使用されたようですが、当時庶民に砂糖が流通することはほとんどなかったようです。

調味料として使用されるようになる-鎌倉時代〜室町時代-

平安時代末期から日宋貿易が始まると、鎌倉時代にかけて大陸から砂糖が輸入されるようになります。この当時はまだ砂糖は貴重であり、一部の上流階級者しか口にできないような代物でした。

鎌倉時代から室町時代にかけて徐々に庶民にも砂糖が広がっていきます。中国に留学した禅僧などが禅宗ともに喫茶の風習とと点心(食後に軽い物を食べること)の習慣も広めました。禅僧は早朝や昼食などの食事の後に、茶の子(茶うけ)で茶を飲みました。その際食べられていたものに現在の羊羹や饅頭などが含まれており、それら羊羹、饅頭に砂糖が使用されていました。そして羊羹や饅頭は一般庶民にも販売がされれるようになりましたが、まだまだ砂糖は貴重品で砂糖を使用した羊羹を砂糖羊羹、砂糖を使用した饅頭を砂糖饅頭とあえて砂糖をつけて販売をしていました。

室町時代(15世紀頃)には、室町幕府三代将軍足利義満の時代に日明貿易が始まり、この貿易を契機に砂糖が大量に輸入されるようになり、徐々に砂糖が一般的な調味料となっていきます。そして室町時代末期になると室町末期になると、ポルトガル人などにより南蛮菓子が伝えられました。カステラ、ボーロ、金平糖、有平糖といった菓子類です。当時ポルトガルの船によってもたらされた砂糖はヨーロッパでできた砂糖ではなく中国買い付けてきた砂糖だとされています。そしてこの時すでに年間3,000~4,000トンの砂糖が取引されていたと言われており、砂糖が一般的にな調味料として確立しました。

鎖国から自国生産へ-江戸時代-

江戸時代は鎖国の時代であり、長崎の出島でオランダと中国(当時は清)のみと貿易を行うようになります。江戸時代前半はまだ国内で砂糖を生産することはできず、輸入に頼っていました。一度、長崎に輸入された砂糖は、幕府直営の長崎会所で課税をされ海路で大阪に運ばれてから全国の問屋や小売店などに広まったとされています。一方で正規ルートではない砂糖が一定あったと記録されており、例えば、オランダの貿易船の人間が荷揚げをする人に給与の代わりに砂糖を渡したり、役人への賄賂、遊女へのお土産など、さまざまなルートで砂糖が流通しました。そしてそれら砂糖は陸路で運ばれ、長崎から小倉まで砂糖によって栄えたエリアを砂糖街道(現在のシュガーロード)と呼びます。

江戸時代の中頃には8代将軍徳川吉宗によってサトウキビの栽培と製糖が奨励され日本でも国内産の糖を増やすため、製糖業が全国各地に広がり砂糖の使われ方が大きく変わっていきます。香川県や徳島県の「和三盆」は、そうした中で生まれた国産砂糖です。しかし、元々砂糖生産の適地でない日本で、全体の需要に見合うほどの供給量を国内で確保するのは難しく、海外からの輸入は続きました。

そして江戸時代末期にはさらに国産砂糖を増やすために、サトウキビの栽培も始まり、国産砂糖の量は徐々に増加していきます。そしてこの頃には砂糖もかなり一般化され、江戸や大阪の境だけでなく、地方でも和菓子店ができるなど広く広まったとされています。

開国と国産砂糖の苦境

ここまで順調に国産の砂糖生産が行われるようになってきましたが、一気に国産砂糖が一気に苦境へと追いやられる事態が発生します。それは教科書にもよく見るペリーの黒船来航による開国です。ペリー来航を契機に日米修好通商条約が結ばれると、日本の主要な港が開港され、今まで砂糖にもかけられていた関税が撤廃されます。

これにより、国産で砂糖を作るよりも輸入のほうが安く砂糖が手に入るということとなり、砂糖の流通量はさらに増えたものの国内の砂糖製造者や原材料となるサトウキビ、テンサイを生産する農家にとっては大打撃となりました。特にイギリスの東洋貿易の中心的存在だったジャーディン・マジソン商会が香港に中華火車糖局を設立します。中華火車糖局は現在の日本の工場でも使われている技術の、真空結晶罐と遠心分離機が使われていてる精糖工場で品質も高く、また安く砂糖を大量生産できるということもあり、国産の砂糖はさらに追い込まれます。こうして江戸時代中頃から国産砂糖が製造され、江戸時代末期には輸入量を上回る国産砂糖の製造に成功したものの開国によりまた砂糖は輸入に頼る時代に逆戻りしてしまったのです。

戦時下における国産砂糖の復活-明治時代〜大正時代-

開国により1度は壊滅状態になってしまった国産砂糖ですが、日清戦争に勝利をきっかけに日本の砂糖製造は一気に飛躍することとなります。新渡戸稲造による「糖業改良意見書」により当時占領地であった台湾を初めて日本国内の主要な港に近代的な精糖工場が次々と建設されるようになりました。さらに日露戦争により日本は好景気となり、精糖工場の建設はますます加速していきます。明治35年の1902年には3万トンだった生産量は、1909年には27万トンまで増加したとされています。こうして1度は壊滅的であった国内砂糖の生産は戦争を機に近代化され、また国産の勢いを取り戻しました。

戦争による砂糖供給の低下-大正時代〜昭和時代-


日清戦争の勝利により領有した台湾での製糖業が好調となり、国内でも精製糖工場を作ったことで国内生産量が飛躍的に増えますが、1930年頃から始まるアメリカの大不況におり国産砂糖もまた打撃を受けることとなります。アメリカの大不況を契機に日本では1931年に紡績業や製紙業など主要な産業を対象に、カルテルを認める「重要産業統制法」が施行されます。この法律は製糖産業にも適用され、1939年、神戸で砂糖不足によるパニック騒動が起こります。これをきっかけに1940年から砂糖は配給制となります。第二次世界大戦時にお米などは配給制になっていたと歴史の教科書などで学んだ方も多いかと思いますが、実は砂糖は戦争で米が配給制になる前に先駆けて配給制となっていたのです。そして砂糖の1人当たりの年間使用料は0.6㎏、1日に換算すると約1.6gとほとんど砂糖を使わない生活になってしまいました。

戦後からの復興-昭和時代〜-

第二次世界大戦に敗れた日本は文字通りの大打撃を受けます。GHQ主導による復興計画が進む中で、食糧を安定的に確保することは至上命題でした。しかし、日本は戦争に多くの費用を費やしたこともあり外貨を十分に持っておらず、海外から何かを仕入れ用にも十分に仕入れられないという状態でした。そこで日本は限りある外貨を何に使うかを決め、1度政府主導で仕入れを行ったのち、民間企業に卸すという仕組みを作り、砂糖もその仕組みが適応されました。民間企業に卸す砂糖の量は製造設備の能力によって決められるため、各社が競って精糖工場を整備しました。当時は慢性的な物不足で砂糖も不足していたことから作れば売れるという時代で各社が躍起になって工場を整備したことで、国産砂糖の製造は一気に回復します。同時に沖縄・鹿児島・北海道での原材料の生産の再開と粗糖の輸入の自由化に伴い供給が少しずつ戻り、昭和48年(1973年)には1人当たりの年間消費量が29㎏まで戻り、現在も欠かせない調味料の1つとして多くの人に使われています。

糖価調整制度とは

現在日本での砂糖は全体の4割を国内生産、6割を輸入に頼って仕入れています。砂糖はサトウキビやてん菜から抽出した糖分を結晶化させた原料糖を加工することでさまざまな種類の砂糖として販売しています。

日本とは違い広大な土地や原材料を育てるために適した環境のある国で作られた原料糖は国内で作られた原料糖に比べるとコストの差が激しく、国内生産の甘蔗糖(サトウキビ)は4倍、てん菜糖(てん菜)は2倍も価格の差があります。土地の広さ以外にも低賃金での労働力や為替の相場も大きく影響しコストの差が大きくなってしまうのです。

戦後、昭和38年(1963年)の“粗糖(原料糖)の輸入の自由化”により砂糖の供給は戻りましたが、国内外の価格差が激しく、高騰低落を繰り返すことで生活にも大きな影響が出るようになりました。それを改善し、価格を安定させるために昭和40年から取り入れたのが糖価安定法であり、平成19年の改正から「糖価調整制度」として現在も実施されています。

この制度により国内外の砂糖の価格の差を調整し、国内の原料糖製造事業者の経営が上手く回ることで消費者への砂糖の供給や価格が安定するようになっています。

参照:農畜産業振興機構 「日本の砂糖を支える仕組み」

調味料としてかかせない砂糖は国や行政法人などが間に入り調整することで、私達消費者に安定した価格で供給されています。日本だけでなくアメリカなど海外でも同じような政策は行われており、このような制度や政策により気づかないうちに消費者も生産者も支え合っている重要な仕組みになっているのです。