日本食には欠かせない調味料「醤油」は、日本発祥の調味料だと思われがちですが実はルーツがあるのをご存じですか?今回は醤油の始まりから現在に至るまでどのような歴史があったのかお伝えしていきますね。
醤油の始まり
日本で「醤油」という言葉が出てきたのは室町時代と言われています。しかし、それより前から醤油の原形となっている調味料はありました。日本では稲作が盛んになり本格的に行われ始めた弥生時代にはすでに中国大陸から伝わった魚醤(ぎょしょう)と呼ばれる魚介類を塩で漬け込んで発酵させた調味料を使っており、後に穀物を使った穀醤(こくびしお)が主流となっていきます。魚醤や穀醤を総称したものを「醤(ジャン)」と呼び、この醤が醤油のルーツとなっています。文献に醤油が記録されたのは7世紀、室町時代ですが、それ以前より醤油の原型はあったようです。
醤(ジャン)は古代中国から作られ使われていたもので、日本には「醤(ひしお)」として伝わっています。日本でも醤(ひしお)は肉や魚、穀物、野菜などを塩漬けにした発酵食品の総称としていました。伝わった正確な時期は不明とされていますが、530年~550年に作られた中国最古の農業書「斉民要術」にはすでに黒大豆を使った醤の造り方が記載されていたと言われています。
一方でヨーロッパでは西暦1世紀頃にはガルムと呼ばれる、現在でいう魚醤が使用されていました。当時は相当な高級品であり、一部の裕福な家庭や王族などが使用している調味料であり、現在の醤油とは別物になりますが、魚をベースに発酵させた調味料が醤油の始まりであることは世界的にも共通しているようです。
醤油という言葉の誕生 飛鳥・奈良・平安時代
飛鳥時代に入ると、701年に定められた“大宝律令”によって宮廷の料理を受け持つ大膳職である主醤(ひしおのつかさ)が大豆を原料にした醤を作っていたとされており、塩辛の原形である魚や肉を塩漬けにした肉醤・魚醤、漬物の原形である野菜を塩漬けにした草醤、そして穀物を塩漬けにした醤油や味噌の原形となる穀醤の3種類に分けられていました。
奈良~平安時代には四種器という「塩・酒・酢・醤」の4種類の調味料を膳に乗せて宴会で出されていた記録が残されています。しかし、当時の醤は醤油ほど液体ではなく味噌との間のようなものでした。しかし平安時代、一般的に販売されていた調味料は非常に少なく塩、醤(ひしお)、未醤(みそ)、あめの4種であったとされています。催事や一部の貴族の間ではそれら調味料を微妙に変えたり、宴会に出されたりするほどに貴重なものであったとされており、まだまだ一般の民には醤油(ここでは醤)が認知されるほどではなかったともされています。
醤油の誕生 鎌倉・室町・安土桃山時代
鎌倉時代には信州の覚心という禅僧が中国から持ち帰った径山寺味噌(きんざんじみそ)の製法をもとに味噌を作ったところ、製造過程で桶の底に液体がたまり、これが現在のたまり醤油の原形とされています。
その後、径山寺味噌の製造は寺院に受け継がれ現在の醤油に近いものが室町時代中期頃に作られています。醤油という言葉が出来たのもこの頃と言われていますが、初めてその文字が記録されていたのは安土桃山時代の文献で日常用語辞典でもある“易林本節用集(えきりんぼんせつようしゅう)“と言われています。当時醤油の油はとろみのある液体を指す漢字であり、醤という文字と合わせて醤油となっという説が最も濃厚です。
鎌倉時代は争乱が続き、一時期醤から兵糧にも使える味噌の生産が主流となりましたが、室町時代初期にさまざまな文献に醤油に似た調味料が記載されており、この辺から再度醤油の生産が徐々に増えています。醤油の醸造が盛んになったのは室町時代後期、関西を中心に生産されるようになり、後に江戸に大量に送られるようになります。
江戸でも醤油作りが盛んに 江戸時代
政府の中心が江戸へ移ると人口も増加していきました。それに伴い江戸では独自の文化が発展していきます。それまでは上方(関西)文化の影響を強く受けており、醤油も大半が大阪から送られて来ていました。当時は上方から送られてきたという意味合いから「下り醤油」と言われ、品質や味が良く値段も関東のものに比べると2倍ほど高かったとされています。余談ですが、関西から江戸に送られる産物は「下りもの」と呼ばれ高価で重宝されたそうです。一方で品質が悪いものは江戸に降ることができないため、「下らない」と呼ばれ、価値のないもの示す言葉として定着されたともされています。
徐々に千葉を中心とした関東での醤油造りが盛んになりました。関東では銚子を中心に醤油作りが拡大します。銚子は黒潮と親潮が交わり、夏冬の温暖さが少なく温暖多湿であり麹菌や酵母の発酵に適している気候でした。また、常陸の大豆、小麦が入手しやすい立地であり、最大の醤油消費地である江戸まで江戸川、利根川を利用した海運が活用できたことなど、地政学的に醤油の醸造に有利な土地でした。その銚子で1616年田中玄蕃が醤油醸造を始め、これが関東最古の醤油醸造企業(現:ヒゲタ醤油)となります。そして1645年濱口儀兵衛が紀州に銚子に移り醤油醸造を始めました。これが現在のヤマサ醤油です。
ヒゲタ醤油を創業した田中玄蕃が1697年に関東の人々に愛される濃口醤油の醸造方法を確立し、関東では濃口醤油の製造が盛んになります。1770年にはとうとう関西から下る醤油の量を関東で生産される醤油の量が上回ったとされます。そして、関西からの醤油の輸送の減少が進むにつれて、関西では「淡口醤油(うすくちしょうゆ)」が確立され文献によれば1666年に円尾孫右衛門という人物が淡口醤油を発明されたとされています。
また江戸時代から始めて日本の醤油は世界へと輸出されるようになりました。当時唯一海外との交易を行っていた長崎の出島から中国、インドを経由してヨーロッパまで醤油の輸出はされていました。醤油は極東の調味料として重宝され、18世紀のフランスの文献には醤油が紹介されており、当時の中国の醤油よりも品質が高いなどと記載さていました。
世界の繋がりと一般家庭へ醤油が普及 明治・昭和時代
明治時代に入り産業化が進むにつれ、人々の所得が増えると醤油の需要も増加していきます。第一次世界大戦以降はさらに近代化し、醤油製造のための設備の大型化や機械化によって一般家庭へ広く普及されました。普及に伴い原料のコストを抑えるために大豆などの原料を海外の輸入に頼るようになります。それまでは丸い状態の丸大豆を使っていましたが大豆油を製造した際に出る副産物の脱脂加工大豆を使う製法を取り入れるようになりました。しかし、第二次世界大戦により原料が輸入出来なくなり、原料不足に陥ります。
実は、江戸時代から日本の醤油は長崎の出島から中国・東南アジア・インド・スリランカなどの海外へ輸出されていました。その一部がヨーロッパへ渡り、日本の醤油は風味などがとても優れていると18世紀中期にフランスで発行された「百科全書」にも記載されるほど評判がよかったそうです。さらに、日本人の海外移民が増加すると同時に醤油も海外へ輸出することが増えていきますが、同じく第二次世界大戦により輸出も難しくなってしまいました。
第二次世界大戦後、1949年に醤油の輸出を最初に再開したのは古くから醤油の醸造を行ってきたキッコーマンでした。もともと、海外輸出は各国にいる在外日本人向けのためでしたが、1957年にアメリカの人々に醤油を普及しようとした働きがきっかけで16年後にはアメリカでの生産も始まり一気に国際化へと進んでいきます。
昭和に入ると日中戦争により物価が上昇し一時期醤油も規制されてしまいますが、1950年に規制が解除されると醤油は自由競争となりさらに身近な調味料となります。同年に農畜産物の品質安定などを目的とした日本農林規格(JAS規格)が制定され、1963年に醤油のJAS規格が定められてからは醤油の種類や等級などが分類されるようになりました。醤油のJAS規格は品質のよい醤油の基準として現在においても非常に重要な役割を果たしています。
醤油は現在ではどの家庭でも常備していることが多い身近な調味料の1つですが、さまざまな背景があり一般家庭へ普及するまでにはとても長い時間がかかっています。原料や製造過程はほとんど変わっていない醤油もボトルの改良や製法の改善、牡蠣やしじみなどの出汁入り醤油や具材の入った食べる醤油など加工されたもの、さらには卵かけごはんなど料理専用の醤油の開発など現在でも日々進化しています。日本食の人気の高さから海外の人にも醤油の人気は高く、国内外関係なく多くの人に愛されている調味料なのではないでしょうか。
シンプルな原料から作られた醤油は同じ種類でもメーカーや醸造所によって美味しさが変わる奥深い魅力があります。今後さらにどのような進化があるのか期待したいですね。